深夜のラジオに救われる人生

 

まさかこんな気持ちになれるとは思わなかった。

夜な夜な、パソコンの画面で観た空気階段の単独ライブ『anna』。観終わった後、どうしようもなく胸がいっぱいになってしまい、思わず窓を開けて夜の空気を吸い込んだ。あれからだいぶ時間が経ってしまったが、自分なりの記録として感想を残しておきたいと思う。

 

昨年末、新婚生活のまま入籍から11ヶ月後に離婚した水川かたまりの実体験を思わせるコントからこの単独ライブは始まる。このオープニングコントのオチ台詞である、もぐら演じる男性の、

「まあ、こんな人生もあるよねー!?」

という一言に、全てが詰まっているような気がした。

 

空気階段のコントの世界の登場人物たちは、皆ちょっぴり、いやだいぶ変わっていて、ヘンテコである。しかしそれにもかかわらず、彼らがいる世界の外枠はどこか現実世界に根ざしていて、その中を生きる登場人物たちの懸命さはどこまでも可笑しくて愛おしい。

そんなそれぞれのコントの中のキャラクターたちが、最後の表題コント「anna」の中でも所々で姿を見せることで、これらの人間が皆同じ世界のもとで息づいているのだと感じられるのが素晴らしかった。ヘンテコでも、周りと違くても、生きづらくても、それでも大丈夫だと思えるような、作品全体に流れるあたたかな肯定。やってることも言ってることもくだらなくておかしいのに、ふとした瞬間どこかセンチメンタルになってしまうような、なんとも不思議な気持ちになりながら、惹き込まれるように見ていた。この感覚は何かに似ているとずっと思っていたが、これは多分、「泣き笑い」の表情を見たときの、あの感覚だと思う。

「anna」の中では、それらのバラバラの登場人物が、同じ周波数の元で繋がっている様が描かれていた。全く別の人生を送る人々のそれぞれの生活の隙間で、またはその根底で、流れるもの、それが深夜ラジオなのだなと思う。そして時に、それが恋の始まりになることだってある。

 

「anna」について書く。

「同じコンテンツの共有を通じて始まる恋」。これがこのコントで描かれたテーマであり、そしてこの ”同じコンテンツ” がまさしく深夜ラジオなわけなのだが、私はまさにこうやって始まった恋を実は経験したことがあり、そのためようやくかさぶたになりかけていたはずの傷の存在を久しぶりに思い出すなどしてチクッと胸が痛んだのも事実である。ただ、このコントで描かれていた高校生の2人の恋模様はあまりにも美しく、甘酸っぱいものであり、自分の過去の思い出にも重ねながら、そっと抱きしめるように観ていた。そして改めて感じたのは、「深夜ラジオ」という存在の尊さであった。

 

深夜ラジオとの出会いは、おおよそ共通して孤独な時間に訪れるものであると思う。

かたまり演じる女子高生のシマダさんも、夜遅くの勉強に疲れ、ふと目に止まったラジオを何気なくつけてみたことで、とある番組に出会う。“チャールズ宮城のこの時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよラジオ” というハチャメチャな番組名と、ほとんど放送事故な行動ばかり起こすハチャメチャなパーソナリティ、そして、下ネタ多めのリスナーからの投稿といった、これぞ深夜ラジオ!といった設定が最高なのだが、こういうラジオ番組に、みんなが寝静まった小さな部屋の中で一人出会った時の胸の高鳴りと少しの背徳感は、深夜ラジオリスナーなら皆経験したことがあるのではないだろうか。そして、この自分だけが知っていると思っていた小さな秘密を共有しあえる相手に出会ったときの喜びといったらない。

 同じクラスのヤマザキくんは、ネタ職人でもある、同番組のヘビーリスナーであった。同じクラスにもかかわらず、それまでほとんど会話をしたこともなかったのに、互いが同じ番組のヘビーリスナーであることがわかった瞬間二人は一気に距離が縮まる。深夜ラジオはしばしば「秘密基地」と例えられることがあるが、これ以上ないくらいぴったりの表現だと思っている。下ネタばっかり言うけど、くだらなくてしょうもない話ばっかりしてるけど、でも毎週ひっそりと放送を心待ちにしている、深夜ラジオという秘密基地。そんな場所を知っている者だけが使える共通の言語で通じ合った瞬間、どうしようもなく感じてしまう「運命」のような感覚は、あまりにも身に覚えがあるものであった。だからこそ、どう見ても興奮を抑えきれていない2人はあまりにも眩しく、シマダさんの

「私たち、はしゃぎすぎてる」

の自覚的な一言には胸がぎゅっとなった。

 

その後二人は訳あって(本当にいろいろ、訳あって)想いを伝え合うことができないまま大人になり、喫茶店の店主とタクシー運転手という、放課後の教室で打ち明けあった当時の夢を互いに叶えた状態で再会を果たす。仕事中もラジオを聴いていて、いまだに投稿も続けているヤマザキくんと、投稿はやめてしまったけれど、毎週番組を聴いていたシマダさん。それまでの空白の時間にも二人の間には同じ番組が流れていて、見えない「時」が共有されていていたことが判明し、こちらにまで嬉しさが広がる。

そして、「チャールズ宮城のこの時代この国に俺が生きてるからって勝手に勇気もらってんじゃないよラジオ」、通称「勇気ラジオ」に、ついに最終回を迎える時がやってくる。最終回の日の深夜、ヤマザキくんはシマダさんを、ラジオ局のある赤坂に誘う。好きな人を乗せて真夜中に走らせるタクシーで流れる、二人を繋いだ大好きなラジオ番組の最終回。そして、パーソナリティが最後に流すのは、銀杏BOYSの『夢で逢えたら』であった。このシーンの美しさが、時間が経った今でも焼き付いて離れない。人生の中の何らかの体験と結びつくことで、好きだった楽曲に新たな色がのるという経験はこれまでにもたくさんあるが、今後私はおそらく、『夢で逢えたら』を聴くたびにこのシーンのあの情景を思い出してしまうのだろうと思った。

そして、音楽と同様に、ラジオというものもまさに、誰かの人生の様々な場面と結び付いているものであり、人生と共にあるものなのだと感じた。

深夜のラジオに救われながら日常を生きる中で、その生きがいをきっかけに他者と繋がる。そして、いつのまにか抱き始めた相手への恋心にラジオを通じて向き合い、その番組の最終回を一緒に聴きながら、想いを伝える覚悟を決める。そんなこの物語にどうしようもなく心が震えたのは、私自身もまた彼らと同じようにラジオに救われながら生きている人生だからなのである。

 

それにしても、自分の好きな番組のパーソナリティが、ラジオという場所のことを大切に思ってくれていることがわかる瞬間というのは、リスナーとしては何より嬉しいもので、本当に勝手だけど、どこか救われるような、安堵にも似た気持ちになってしまう。自分が大切にしている居場所を認められたような気持ちになるからかもしれない。空気階段にとってのラジオという場所がどんな場所なのかというのも、この単独ライブで感じられたように思っていて、それが私は、勝手ながら、本当にうれしい。