最後の春休み

学生生活最後の課題を提出し終え、ついに最後の春休みに突入している。とはいえこんなご時世なので特に出かける用事などはない。決まった予定といえば夜に塾講師のバイトに3時間ほど出向くくらいで、日中はとにかく時間が有り余っている。

前の記事でも似たようなことを書いたが、思い切り家に引きこもることがむしろ良いこととして許される今の状況は私にとっては結構ありがたいもので、毎日息をするように映画や本やラジオといったコンテンツを摂取する日々を過ごしている。

 

春休みに入ってから、「ニッポンの社長」というコンビにどっぷりハマってしまった。今YouTube上にあがっているネタはほとんど見尽くしてしまったし、友人に勧められて買った「ザ・大阪よしもと」ライブをきっかけに劇場配信の良さに目覚め、他にも「電気」「辻さん大好き芸人」を買ってしまった。現在では、ラジオクラウドで配信されているお試しラジオ「デドコロ」を聴き漁っている始末である。辻さんのあの独特の渋さと色気、そのわりにゲラで、その笑顔がとてつもなく可愛らしいという恐ろしいギャップにまんまと骨抜きにされている。しかもネタを作っているのも辻さんだと知ってますます好きが止まらない。いつどうやって思いつくんだよみたいなネタとか、それがやりたかっただけかい!みたいなネタとか(あるネタ動画のコメント欄で、「やり逃げ漫才」というコメントを見つけたのだが、言い得て妙だと思った)、理不尽な暴力やあまりに不条理な設定が笑いを引き起こすものとして機能している不思議さとか、そういった全てが本当にたまらない。多分今卒論のテーマを決めろと言われていたら、「ニッポンの社長のコントにおける暴力がもたらす笑いへの作用」(適当)みたいなタイトルで研究し始めかねないと思う。

 

『花束みたいな恋をした』は、公開されたその週のレディースデーに一人で観に行った。

噂に聞いていた通りポップカルチャーの固有名詞がここぞとばかりに散りばめられており、その効果も相まって、過去に経験したあらゆる感情が次から次に思い起こされ、気がついたらずっと自分のこれまでやこれからと重ねながら観ていた。例えばその「共感」は、麦と絹のカルチャーに対する自意識の持ちようにも当てはまり、それはまるで自分を見ているようであって、いわゆる共感性羞恥をビンビンに感じてちょっと辛かった。また、お互いに好意を伝え合う前の期間の、舞い上がるような気持ちの高ぶりや、一方で、付き合い始めの最も幸せな時間のはずなのに、恋人の関係になった途端、どこかに終わりへの予感を抱いてしまっていることに自覚的な様は、あまりに身に覚えがあって苦しくなってしまった。

そして何より、就職し、社会に飲み込まれていく中で変化が生じていった場面は、これから社会人生活のスタートを迎える自分には恐ろしく感じられた。かつて心の底から好きだったり救われたりしてきたものに、いつのまにか心が全く動かなくなってしまうことや、そのことに自分で気づいてしまった瞬間のやるせなさや寂しさ、どうしようもない気持ち、でもどうしたってそこにある変わってしまった自分。人は変わってゆくものだなんてことは十分理解しているけど、だからこそ、この展開にはあまりにもリアリティがあり、生々しかった。そして、同時に来年からの自分のことを考えた。私だって、今これほどに愛しているものを、来年以降も同じように好きでいられるとは限らないのだ。でも、今心の拠り所になっているもののこととか、今それを受け取ってどんな気持ちになったかとか、そういうことをちゃんと覚えていたいし、できればこれからも好きなことを大切にして生きていければいいなと思う。この作品を今のこの春休みに見ることができてよかった。

 

「変化」という関連でいうと、「あちこちオードリー」のCreepy Nuts回が本当に素晴らしかった。彼らがかつて抱えていた「たりなさ」が埋まっていったことや、売れて、身を置く環境もそれに伴う心境も変わっていく中からまた別の角度で生まれた「たりなさ」への悩み。そういう確実に変化していく自分そのものをきちんと認めて、丸ごと晒け出すことができるのは一つの「強さ」だと思った。昨年、若林さんのエッセイの解説で、松永さんは「俺は誓いました。あなたのように生々しく生きていこうと。」と書いていたが、まさにそれを今、ずっと背中を見てきたオードリーの目の前でやっているのだなと思って勝手に感動してしまったし、それに対する若林さんの受け止め方も優しくて、愛が溢れていた。

後半の仕事論の話は、きっとまた社会人になってから見返したくなる時が来るのだろうなと思い、録画にそっとプロテクトをかけた。

 

 

今をこんなぬるま湯の中で過ごしているのに、あと1ヶ月とちょっとしたら急に社会に放り出されるということが、私は怖くてたまらない。社会人としての変化にきちんと順応していけるのだろうか。そして、変わらざるを得ない場所で、私は私のままでいられるのだろうか。