夏の名前

季節の終わりはいつも唐突で、急に冷たくなった外気に身体がまだ追いついていない。

朝の支度をしながら流し見していた情報番組から、「今日から学生は新学期ですが〜」というアナウンサーの声が聞こえてきて、そこで初めて、夏が終わったことを自覚した。8月が丸々休みだった学生時代に毎年繰り返し味わっていたはずの、今年も夏がゆくのだなというあの特別な感情を、今年は何も感じることなく、意識にすらのぼらなかったことに、少し寂しさを感じてしまった。

 

お盆には10日ほど連休が貰えたけど、世の中がこんな状況なので、10日間本当にどこにも行かず、家でひたすらドラマや映画を見たり、ラジオを聴いたり、図書館で借りた本を読んだりして過ごしていた。

小学生の頃って、あんなに長い夏休みを毎日どうやって過ごしていたっけ、ということをたまに思う。行動範囲も遊ぶ友達もあんなに限られていた小学生の夏のこと、今こそ思い出したいのに本当に思い出せない。かすかに残った記憶の断片には、少し遠くのイオンに母と車で買い物に行って、帰りにサーティーワンを買ってもらうことが本当に楽しかったこととか、市民プールに連れて行ってもらった帰りにコンビニであんまんを買ってもらったこととか、そういうことばかりが残っている。食べ物の記憶ばっかだな。

 

連休中、今更ながら『カルテット』を観た。なんでこんな最高のドラマを当時リアルタイムで見てなかったんだよと思ったが、放送時期を調べたらふつうに大学受験真っ只中だった。この世にアマプラがあって良かった。ありがとうアマプラ。

まきさんとすずめちゃんが二人でカツ丼を食べるあのシーンに、世間の皆様より4年遅れてぐわんぐわんに心を揺さぶられた。「それでも生きていく」ということを強く意識させられる場面でカツ丼が登場することが多い気がするのだが、これは、あの食べ物のもつ温かさと、パワーが身体中を満たしていくようなイメージがそうさせるのだろうか。ぱっと思いつくだけでも、アンナチュラルのミコトさんがタフな仕事の前にカツ丼をかき込む姿や、ハチミツとクローバーで、失恋直後の山田さんが、カツ丼をもりもり頬張る姿が思い出される。

ちなみに私がこの世の物語の中で一番好きなシーンは、『キッチン』(吉本ばなな)で、みかげが雄一にカツ丼を届けに行くシーンである。

 

朝井リョウの『正欲』もやっと読むことができた。

前々からなんとなく思っていたことだけど、改めて思ったのは、人間、誰しも本質的には「一人」なのだということだ。わたしの痛みはわたしにしかわからないし、誰かにわかってもらえるとも思えない。自分という人間が、存在するのかすらもわからない「正しさ」の中から外れている気がすることが、それが他人にバレてしまうことが、怖くてたまらない。にもかかわらず、他人に本当の自分をわかってもらえないことはこんなにも息苦しい。

そんな中で、帯にも抜粋されている「生き延びるために、手を組みませんか」というセリフと、後半の夏月と佳道が擬似性行為を試みる一連のシーンとその中の記述に、今のわたしは随分と救われている。この夏、この物語に出会えてよかった。

以下は、『正欲』を読みながらふと思い出した短歌。

ふたりだと職務質問されないね危険なつがいかもしれないのに (雪舟えま)

 

読み終わってから、なんだかどうしようもなく朝井さんのおしゃべりが聴きたくなって、過去にアフター6ジャンクションのカルチャーコーナーに朝井さんがゲスト出演していた回(ちょうどTBSラジオでActionが始まる直前の回だった)をラジオクラウドで見つけて聴いたのだが、朝井さんが自分の新刊の宣伝そっちのけで宇多丸さんとDJ松永について語っているのが微笑ましくて最高だった。朝井さん、またラジオやってくれないかな〜。