3/25の日記

 

大学生活は人生のモラトリアム期間だとはよく言うが、わたしの4年間はまさにそれそのものだったと思う。そんな大学生活を、今日の卒業式をもっていよいよ終えてしまった。

大学で学んだことが今後直接的に何かの役にたつ訳ではない、なんてことはこの学部を志望した高校二年生の夏の時点でわかっていたことで、そんなことはハナから期待していないし、実際私がこれから就く職で直接役に立ちそうなことは、この4年間で全く身についていないと思う。でも、視野が広がったとか世の中の解像度が上がったとかそういう言葉はなんだか陳腐なのであまり使いたくないのだけど、実際わたしが大学で得たのは、そういう抽象的な世界の広がりだったような気がしている。 

 

一方で、とにかく私の4年間は、何か特別なことをやり遂げる訳でもなく、ふわふわとつかみどころがないままに、あっという間に過ぎて行った。

変わらなかったなと思う。変わりたいとも特には思わなかったから、そりゃ変わるわけはないのだけど、本当に、私は何も変わっていない。人の人格形成にもっとも大きな影響を与えるのは中学時代で、そこでその人のおおよその核は決まってしまうという説を聞いたことがあるが、これはわりと真理だと思う。外側の形とか、趣味嗜好とか、そういうちょっとした見てくれの部分が変わっただけで、もっと内側のどろどろとした部分はいやらしいほどに変わらない。もう手遅れなのだなとこの歳になって思い知る。大学生になって、より広い世界との接続を持って複数のコミュニティ内で多様な人と関わる中で、よりその確信は強くなっていったように思う。自分のできないこと、ダメなところが嫌というほど浮き彫りになって見えてきて、改めてそれらが自分に突きつけられた気がした。ただ、そういう自分の嫌な部分に対して、見て見ぬ振りをして鈍感になろうとする術だけはやたらと身につけてしまったように思う。 そんなの悲しいけど、結局大人ってそういうものなのかもしれないですね。

こうやって、時折まざまざと見せつけられる自分の何者でもなさに愕然とさせられたこと、努力もむなしく全く実を結ばないままに終わっていったこと、そういう色々が、この4年間には思い出せるだけでも結構あって、こんな感じでぬるい日々の中でも立派に傷ついて、いまだにぐじゅぐじゅのまま乾いてない痕がいくつもある。でもそういうものも、社会という大きな波にのみ込まれて転がっていく中でいつのまにか跡形も無くなってしまう日が来るのかと思うとそれはそれで寂しいなと思ったりもする。

 

 

昨年、就活真っ只中で読んだ朝井リョウさんの『何者』の主人公の友人が言っていた、「『最後の改名みたいなもの』の終わり」のことを、ここにきてまた思い返したりしている。以下は、光太郎という登場人物のセリフである。

 

 俺たちって今までそうやって、自動的に区切られて来たわけじゃん?小学校入って六年経てば中学生って名前に変わって、三年経ったら高校生って名前になって。でもこれからは、自分でそれをしていくしかないんだなってことなのよ。

 

学生時代のように、自動的に人生に大きな区切りが訪れることは、これから先きっともうない。もちろん、部署の異動や転勤くらいならあるのかもしれないけど、結婚にしろ転職にしろ、自分の意思で動く以外の方法では変化は手に入れられないのだという事実を改めて思い知って、途方もない気持ちになる。

自分がしたいことを自分で理解して、その為に自分で一歩を踏み出すこと。それがいかに難しいことかを、今のわたしはある程度知っている。そして、未だに目先のことすらぼんやりとした状態でしか見えていないまま、あと僅かで自動的にやってくる最後の区切りのスタートを受け入れようとしている。