開かない扉

最初の2週間の導入的な研修を終えて、また新しい種類の研修に入っている。前回は週1、2回のペースで出社日があったのに対し、今回の研修はフルリモートでやるらしい。しかも7月まで。7月の自分がどうなっているかなんて、今の自分では全く想像がつかない。

受験とか就活とか、人生の中で訪れるいわゆる ”超えるべき壁” に出くわすといつも、世の中の私より年上の大人は皆、人によって形は違えどこういうものをすでに経験してきているんだろうなと思って、その度に大人って立派だなぁなどと考えてしまう。今私はこれを電車の中で書いているのだが、スマホの画面を見つめる目が完全に笑ってしまっているあの目の前の女性も、隣で爆睡しているスーツ姿のおじさんも、皆本当にすごいしエライ。と知りもしないのに勝手に感心して、とにかく新人の今は目の前のことを一つずつ頑張るしかないよなといつものありきたりな結論に落ち着いている。

 

今の研修は12人ずつのグループに分かれて行われ、その中でグループワーク的なものをやったり個人ワークの発表をしたりする。そしてさらに、ほぼ毎日このグループで自由に雑談をするだけの謎の空き時間があるのだが、私はこういう大人数で行われるランダムな会話がとにかく苦手だ。

前までは、オンライン上だから大人数で話すのが難しいんだと思ってたけど、そもそも対面でこんなに大勢で顔を合わせて話をすることってこれまであまりなかったし、というか対面でもこういう大勢の中で発言するのって苦手だったわと最近思い直している。例えば、言いたいことは山ほど思いついているのに、タイミングがわからず入っていけない。入れたとしても、自分のまとまらない下手くそなおしゃべりに他の11人が耳を傾けてくれているのだという意識が喋っているあいだ中頭のなかを占拠して、早く切り上げて解放されたいと言う思いに駆られた挙句つい話を端折ってしまったりする。

最近では12人からさらに4人ずつの班に分かれて喋ったりすることもあるが、それはそれで、ますます他の人の話をニコニコ聴くだけの役に徹するというわけにはいかないため、メンバーひとりひとりの発言の重みが倍増する。30分程度のまあまあ長い時間の中で、対面では顔を合わせたことのない、互いのことをほとんど知らないついこの前集められたばかりの者同士が、完全に0から会話を構築して、そこそこ実のある時間を作り出すというミッション。誰かがあぶれてしまわないように常に皆にとって最大公約数になりうる話題を探す。会話が途切れないように誰かの一言をキャッチし、広げられるところを探して新たな話題に繋げる。ぎこちない間柄でこういうことを繰り返しやっていると、会話というものはこうやって紡がれていっているんだなというのがわかってくる。そしておそらく会話を構成している皆が薄々気づいているはずなのだけれど、(こんな風に思っているのは私だけな可能性もあるけれど)、こんな風に会話の骨組みの部分が透けて見えちゃってる時点で、この場は本当の意味で盛り上がってはいないのだ。

 

こんな感じで日々そこそこ長時間の雑談タイムをこなしていると、雑談というのは自分の情報を公開することが必須になっていることに気づく。趣味、好きな芸能人、よく聞く音楽、学生時代の専攻、 週末の過ごし方。一通りこれらのトピックを逡巡して、新たな話題を生み出すと同時に相手の内側の解像度を高めていく作業。そして雑談上手な人というのは、そういった自分の情報を公開することに厭いがない。一方で私はそれが本当に苦手で、前にも書いた気がするけど、何か聞かれた時にめちゃめちゃしょうもない小さな嘘を咄嗟についてしまったりしてうんざりする。好きなら自信を持って好きと言えばいいのに、「◯◯が好き」の ◯◯ の部分に何をチョイスするかいちいち悩んで、本当のこととは少しずらした答えを喋ってしまったりする。自分が好きだと言ったものが、そのまま私のイメージに結びついてしまうような気がして、そのことにすごく抵抗を感じている。でもこういう自意識は、間違いなく自分が他人に対してもそういう見方をしてしまっているからだということに最近になってやっと気がついた。あと、どんな風にそれが好きなのか、私が好きなものたちの本当のことをうまく伝えられる自信がないという理由で、結局その対象の表面上の薄い部分だけを切り取って簡単な説明でその場を逃げるように終わらせてしまうのも本当に良くないなと思い反省している。

 

他人に自分を開くこと、自分をわかってもらおうと努力すること、私に必要なのはこの2つで、この機会にちゃんと向き合おうと思う。というかこの本部の研修計画のゆるさ故にほぼ毎日生まれる謎のフリータイム、もしかしてこれはこれでコミュニケーション能力醸成のための計画された研修の一貫ですか?